2009-05-18

内と外(3)

建仁寺と東福寺で勅使門、恩賜門というのを見た。庭園にある壁は内側からは無いものと思って外部世界へ開かれており、外部から来る使者には(方丈という接待場所である)内部への接待の入り口となるそうな。またしても内部と外部という境界の話だ。
お坊さんの説明がはっきりとこういった説明だったか記憶していないが、この説明を聞いていて関係が無いはずのひとつのことに捉われてしまいあとの話をうわの空で聞き逃した。

さっそく家に帰って確認したこと。マルティン・ハイデガー「芸術作品の根源」に次の言葉がある。
開けの空け開けることと、開けたところの内へと整えいれることとは、共に属しあう。それらは真理の生起の同じ一つの本質である。真理の生起はさまざまな仕方で歴史的である。(99ページ)
また、補遺では次のように言っている。(139ページ~)
真理を「確立すること」は、それを「生起させること」とけっして背反するものではない。というのは第一に、この「させる」は、いかなる受動性でもなく、むしろテシスの意味での最高の行為[Tun]であり、「実存する人間が自己を存在の不伏蔵性の内に脱自的に放ちいれること」として特徴づけられた、「働き」と「意欲」だからである。第二に、真理を生起させるの「生起」は、空け開けと伏蔵として、いっそう厳密には両者の一体化として支配する運動であり、あらゆる自己空け開けがもう一度そこから由来するところの自己伏蔵そのものの空け開けの運動なのである。この「運動」は、それどころか、こちらへと-取り-出すこと[生み出すこと]という意味での確-立さえ要求する。この[取り-]出すことは、創作する(汲み取る)という仕方での<こちらへと-取り-出すこと>であり、「むしろ、不伏蔵性への連関の内部では受領することであり引き出すこと(なのである)」。
これらのことで、立て-集め[Ge-Stell]の意味も規定される。現代技術の本質を言い表す主導語として用いられた語、「立て-集め」[Ge-Stell]は、ギリシャ的に経験された<前に横たわらせること>、すなわちロゴス[λογοζ]に由来するのであり、ギリシャ的なポイエーシス[ποιησιζ]とテシスとに由来するのである。・・・と。